2012年4月24日火曜日

【新作】CHANNELER公開 ー演出編


Director: OHASHI Takashi(takashiohashi.com/ )

Composer: HABUKA Yuri(yurihabuka.web.fc2.com/ )
Mixer: ISHIDA Taro(taroishida.com/ )
MC: ONIPARI
Support Staff
Sound engineer: MOTOKI Kazunari



言葉の変容
「言葉は知性に取り憑かれ、そして人間はその言葉に取り憑かれてるのではないだろうか?」という問いに適切なプロットとして私は「人間の一生」をベースにしたストーリーを考えた。取り留めのない主人公が淡々と成長してゆき、言葉のバリエーション(名詞、接続後、主語、動詞など)や言葉つかい(丁寧語やネットスラング)が変容する過程をシステマチックな構造にすることで、「言葉の変容」をダイレクトに鑑賞者に伝わるミニマルなアプローチがないかと考えた。

それを踏まえて具体的に音楽とビジュアルを作曲家の羽深由理と音楽家の石田多朗と検討してゆくなかで日本語の面白さを表現するのにはHIPHOPが適切なのではないかという結論に達する。HIPHOPは過去の引用(リスペクト)の繰り返しであると同時に、それは日本の俳句や百人一首も同じです。俳句は韻の固まりであり、言葉の扱い方も韻を踏む様なニュアンスであると言及し、百人一首の歌は、声を発した時に噛み心地の良さがあります。
例:「きくえば ねが りゅじ」

この韻(フレーズ)を繰り返す構造に合わせて主人公の表情と言葉つかいを少しずつ変化させるアプローチは、プロットの練る段階で実現させたかった「ミニマルなアプローチ」に適切だと核心しました。


上の画像は作曲を担当した羽深由理による年齢に応じた言葉(文体)の変化を表にまとめたもの。この表に基づいて、MCのONIPARIがリリックを制作した。幼年時代は「あ」や「う」といった仰向けの状態でした話せない身振りによる言葉から、母音が「あ」で構成された言葉から疑問系の言葉に増え、物心つく6歳ごろにはほぼ全ての言葉が使えるようになり、10代では若者言葉、20代からは遠回し表現に敬語といったTPOをわきまえた言葉を使うようになる。

ここで改めてリリックを見てみる。
ぼく、カレーたべたい
ジュース飲みたい
それじゃない
オレンジジュース飲みたい
かき氷ならイチゴよりレモン
友達はみんな、ドラえもんよりも
DSのポケモンだって
ねーお母さん僕も欲しい
だって、もうすぐ誕生日だし
買って買ってお願い買って
ホント、一生の、お願いだって
(幼少期6歳以下)
最近、気になる隣のクラスのあの子
長い髪のテニス部のあの子
学校行くの面倒くさい
でもあの子に会えるならちょっとぐらい
行って帰りはマックでポテトフライ
でも買って友達とだべって
でも中間テストは明後日
良い点とらないとチョー怒られる〜
(10代前半|小〜中学生)
ありがとうございます
合格祝いに買ってもらったPC
TVよりもPCの前で
頬杖ついてかじりつくようつべ
リア充の先輩にはテキトーに、
話合わせる「ハハ、そうっすね」
現実は就活難民、またダメポ(´д`;)
社会の窓ってどこなの?カオス
ハイ!私はwebに興味があり
簡単なHTMLサイトなら作れます!
ほう、、、そういう人材を求めてます
(10代後半〜20代前半|学生)
上司に褒められる、夢で目覚める
グッドモーニング出世憧れる
上司に怒られる、夢で目覚める
バッドモーニング冷や汗が流れる
客に迫られ検討します
構いません休み返上します
その場しのぎでフワっとぼかす
休日出勤マジで引きます
出来ればあんたとはもう二度と
会いたくないです、は〜疲れた〜
お得意様にはまた今度
一杯行きましょって、は~疲れた~
(20代後半|社会人)
相手なんて知らねえよ 大抵最低な奴だよ 
泣いてないでがんばれってうざいね 
塞いでるわたしの心にサイレン
裸のままな働かないで
生きていけたらあたかも魚
はたから見たらただの馬鹿だ
はたまた頭また固まった
温まったまたか
あんたがったどこさ
戦った刀どこ置いてきた
母の腹から華やかな墓場
儚いあかさたなはまやらわ
(言葉に人が取り憑かれた状態)
このように、シーンごとにリリックを見比べると、人間が言葉を覚える/使い分ける年齢に応じてリリックを書き分けているのが理解出来ると思います。



Animatope同様に音節に抽象アニメーションをシンクロさせつつも、リリックが韻をふむタイミングで抽象アニメーションから人の顔を描いたアスキーアート(以下AA)になるアイディアを思いついた。文字や記号を使うことで、本能の言葉が文字という知性を宿した形を得るという意図があるからだ。音楽もJazzyHIPHOPというより打ち込みメインのドライでフラットなシンセサウンドにラップがかぶさる演出に決まってゆく。





人の成長/変化を表す表現
日本語や英語など話し言葉には文法があり、目的に応じて決められた「型」があります。それは映像や音楽にも同じことが言え、CHANNELERの場合は言葉の変容をミニマルに表現するために適した型(構造)を時間軸に与えて表現することが必要でした。映画で使われるカメラの視点のカットを繋ぎ合わせたモンタージュの手法はスクリーンの中で描かれる舞台のスケールや、役者の感情表現を台詞ではなくビジュアルだけでも表現できる編集方法であります。しかし一人の男の人生と成長に伴う言葉の変化だけを描くというシンボリックな見せ方で表現したいと思いカメラから見た視点である必要はなく、また演出上、文字(フォント)を使うため、フォントのもつフォルムの美しさを損なうような演出、、例えばエッジをぼかしたりテクスチャーを施すような事は出来ないと考えました。そのため被写界深度、カメラぶれ、異なる視点からのカット割りや場面の変化などの映画的な演出も抑えて、映像を「別世界と見るための窓」ではなく、動きとシルエットだけが見えてくる平面的な見せ方にしました。


上の画像は映像の展開を練る段階で草案として出したスケッチボード


ビジュアル・ミュージックのあり方として、映像は物語を表現するためのメタファである必要はありません。物語は作品の入り方として分かり易くするためのアプローチにしか過ぎず、物語を描くという行為そのものにあまり興味もありません。問題は言葉の変容を時間軸の構造でどう表現するかであり、変化のさせ方としてHIPHOPミュージック特有の韻を踏む構造に着目しました。そこで私はドイツのアニメーション作家であるアンドレス・ヒュカーデの「愛と剽窃」という作品の構造を下敷きにし、韻を踏むときに人の顔を表してフレーズごとに表情や言葉つかいを変化させるアイディアを思いつくことが出来ました。シンボリックな顔をフレーズごとに変化させる構造にすることで物語はありつつも肝心な言葉の変化と、それに伴う主人公の変貌をミニマルに表現できるからです。



絵文字
文字はヒラギノ明朝体でタイピングできるフォントのみ使用している。ヒラギノ明朝体を使用した理由だが、言葉に取り憑かれた人間が魑魅魍魎としてゆく様を表現するために、実際のAAのようなプロポーショナルフォントを使用してグリッド上にタイピングするより、ヒラギノ明朝体の抑揚のあるなめらかな曲線のフォントを使って金剛力士像のような隆々とした表情のキャラクターを作品の終盤で作ることを想定していたのが一番の理由である。

文字を組む際のルールは
ヒラギノ明朝体でタイピングできる文字と記号のみ使用
大きさ、傾きは自由
文字に輪郭線などを加えて太さを調節することはしない
文字の造形をそこなうブラー、グローなどのフィルターを禁止


After Effectsのコンポジット画面。
フォントはアウトライン化したフォントのパスをシェイプレイヤーとして使って構成している。


このように、ポップなマテリアルで取っ付き易い作品ですが、完成させるまでに言葉のリサーチを積み重ね、演出に様々な制約を自ら設けて制作に挑みました。鑑賞者にとって作品との向き合い方は様々だとは思うのですが、僕自身は作者自らの言葉によってこの作品がより深化するものだと思います。そして今回のエントリーをご覧になって鑑賞するうえでの新たな発見があることを切に願います。


そして作品を完成させるまでに様々な方おご協力がなければ一年間モチベーションを維持して制作することは出来なかったと思います。この場を借りて感謝を致します。本当にありがとうございました。



【新作】CHANNELER公開 ープロット編


"CHANNELER" Staff

Director: OHASHI Takashi(takashiohashi.com/ )
Composer: HABUKA Yuri(yurihabuka.web.fc2.com/ )
Mixer: ISHIDA Taro(taroishida.com/ )
MC: ONIPARI
Support Staff
Sound engineer: MOTOKI Kazunari


そんなこんなで、3月に卒業した多摩美術大学院の修了制作として作っていた「言葉の変容」をテーマにしたビジュアル・ミュージック《CHANNELER》が昨日から公開になりました。

この前のエントリーでも作品の概要を書いたので重複してしまうのですが、SSTVのCANVAS1.0.0というステーションIDを作る企画のなかでオノマトペの可視化をテーマにした"Animatope"を考えた際に言葉や声の面白さをアニメーションで表現することに可能性を見いだしました。

そこで僕の修了制作も言葉をテーマにした作品を作りたくて、前回同様にコンポーザーに羽深由理、そして普段から敬愛してる音楽家:石田多朗を迎えて三人でコンセプトとプロットを練って行きました。今回のエントリーではより詳細に話を展開していこうと思います。


日本語の成り立ち
プロットを練る前にそもそも日本語における言葉って何だろうか?という疑問が湧いてきました。そこで日本語のルーツである大和言葉のリサーチをすることに。調べてみると、大和言葉から現代語に移り変わってゆくなかで、音節が増えるごとに意味が複雑になる傾向があることが分かりました。大和言葉は母音の変化を二度、三度と繰り返し行われて生成されたものが日本語の原理であると。



1音節語→2音節語→3音節語→4音節語
と音節が増えることで現代的な日本語に変化した。
(例:ス「スーっと動く」→刺す/サス)(:ヌ→ナグ→ナガル→ナガレル)

大和言葉の原始は1音節語であり、その意味は動作を示す擬態語だったと言われています。日本語とは単純な意味が派生して多くの意味を含んだ言葉が生まれるようになりました。(日本にオノマトペの表現が豊富なのも裏付けられる)

例えば「指す」「刺す」や「去る」は移動や動きに関連した言葉になります。どの言葉にも、「ススム」や「スク」などを語源とした「ス(サ行)」という言葉に辿り着く。突き詰めて考えると、どんな短い音素の組み合わせでも、言葉やイメージに関連付けさせることが出来てしまう。

つまり日本語は「単純な意味」という要素の組み合わせで構成されていることが分かる。そして言葉には構造や型も存在する。2音節は1+13音節は1+21+1+1などに言葉を分解する事ができ、12音を基本的な単位として構成していたことが分かりました。


3音節動詞
2+1
[動詞+動詞語尾]
ツク+フ→ツカフ(使う)

1+2
[1音節名詞+2音節動詞]
ソ(背)+ムク(向く)→ソムク(背く)

1+1+1
[1音節動詞+強調+動詞語尾]
クム(組む、組む入る)→クボム(窪む)
クル(暮る)→クダル(下る)

このように、声の持つ音響的な面白さや運動・質感を突き詰めると、日本語における言葉の表現に突き当たってゆく。制作当初は「声や言葉の純粋なビジュアライズ」をテーマにした抽象アニメーションを作る予定でした。しかし、リサーチを進めてゆく中で、人が言葉を覚えてゆく事とは何なんだろうか?といことに興味を持ち、結果的に私はその疑問をテーマに作品を作ることに。


うんこ(u,n,ko)の音節を組み合わせた抽象アニメーション


だっこ(da,kko)の音節を組み合わせた抽象アニメーション


なんで(na,n,de)の音節を組み合わせたアニメーション

言葉の本質
作品のリサーチをしてゆく中で、多摩美術大学の情報デザイン学科准教授の佐々木成明氏からこのような話を伺った。


「ママや母親など、親を示す言葉は母音が"あ"で構成された言葉が多い。それは赤ん坊が仰向けで親とコミュニケーションをはかる時、母音が”あ”言えない身振りから生まれた言葉である事がわかる」


そこで改めて気付いたのは、言葉には「必ずしも意味が含まれない」という事です。先に挙げた「ママ、パパ」は親と話したいという本能から生まれた意味のない言葉になりますが、成長の過程で得られる丁寧語やスラングは、環境や特定のコミュニティーで他者と関わるための知性が介入された言葉ではないだろうか、と。ネット弁慶や本音と建前など、人は他者と関わるために形をかえてコミュニケーションをしようとしますが、その振る舞い方に私は「言葉は知性に取り憑かれ形容を変え、そして人間もその言葉に取り憑かれて姿を変えてる」と考えるようになったのです。

そこで私は言葉のもつ危険な側面をビジュアルミュージックにしてあぶり出す事は出来ないかと考えた。それがCHANNELERを制作しようと思った目的です。


2012年4月4日水曜日

【ご報告】多摩美を卒業しました



そんなわけで2012年3月23日をもって多摩美術大学大学院を無事修了しました〜〜(2秒で終わった、、っていうくらい短い院生時代でした)学部時代から多摩美の情報デザイン学科情報芸術コース(以下情芸)にいたので、6年間にわたる多摩美生活が終わって晴れて社会人(フリーランス)として今年からがんばっていこうと思います。

思えば7年くらい前はミュージシャンのアルバムジャケットのデザインに憧れてグラフィックデザインを学べる大学を片っ端に受けて見事に全部落ちたなか、唯一自分を拾い上げてくれたのが多摩美の情報デザイン学科情報芸術コースでした(2012年からはメディア芸術コースという名前に変更するらしい)確かその年の武蔵野美術大学の基礎デザイン学科のお題がドラえもんの平面構成だったのを今でも覚えている。。。

入学当初は自分の置かれた環境を不本意に思っていましたが、学部一年のころに授業内で紹介してもらったRosasやMichel Gondry、Alva NotoやSemiconductorに出会わなければ映像を志そうと思わなかったし、アニメーションや映像専門の学科ではなくて隣でツナギ着てキネティックのオブジェ作ってるガッツのある女の子が居れば、またその隣でプログラミングを駆使して大規模なインタラクティブアートをやる人も居て今思えばよく分からない学科だったな、と。


でもそんなよく分からない学科で一番影響を受けたのが「共に学ぶ人」との出会いであり、彼らから受けた刺激やライバル意識が今の自分を形成してるような気がします。


そんな事を思いながら最近いろんな場で「情デでアニメーションやる人が面白い作品が多い」って言ってくれる方が多い。アニメーション専門の学科じゃないのである種教科書的な作り方を叩き込まれないので、先入観なしに色んなアプローチに手を出す学生が生まれ易い環境だと思うんだけど、個人的には先にも言ったように「共に学ぶ人」の存在が本当に大きいと思ってる。(大学と関係ないところだと新宿タワーレコード9階のNEW AGEコーナーの存在は大きい。あそこで出会った音楽が自分のセンスの大きく形成してると思います。)


ある人が


"どこで学ぶ"か"よりも"誰に学ぶか"、"誰に学ぶか"よりも"誰と学ぶか"


って言ってたけど、まさにその通りでモーショングラフィックスを作ってる際に横からプログラミングやってる人から「何故手付けでアニメーションをする必要があるの?」って突っ込まれることで、モーションでしか出来ない動きや音と映像の関係について考える必要性が生まれたり、一方でコマ撮りのアニメーションや手書きのアニメーションで一コマずつ丹念に映像を作る人と一緒に映像を学んでると、モーション系の手法で彼らと互角に渡り合えるにはどうすれば良いのか?って考えなければ行けない環境に自然と追い込まれる。自分がAfterEffectsだけでコンポジットする拘りや、言葉をモチーフにしたビジュアル・ミュージックをやろうと考えたのも、そういう「メディアと深く付き合う」環境が生んだ発想だと考えてます。


あとは、そういう偏屈な同期や教授との出会いで「否定されても負けない」って考えられるようになったのも大きいかも、、、




ちょっと話が脱却するんですが、いまblogを書いてるのが4月頭で、この時期になるとpixivの某マンガ学科の批判作品を思い出す。その作中で「大学は技術と知識しか教えられない。成功するための知恵や作りたいテーマは自分で得るもの」って台詞があるんだけど、実際に大学じゃ技術は対して教わんないし、知識も本を読めば8割ぐらいは得られます(残りの2割はニッチな作品を教員から教えてもらうこと)。結局、美術大学の存在する意味って何だろうかって思うんだけど、それも上に書いたような共に学ぶ人が大きいなぁ〜とふと思った。あとは素材に対する考え方は美大でしか生まれない発想はありえる。




ちょうど一番上のリンクは、多摩美在学中に作った抽象表現をやり始めた学部三年(2008年の秋ぐらい)から修了制作+クライアントワークを織り交ぜたSHOWREELです。学生生活を一分足らずの映像に編集するのは不思議な感覚でしたが、自分の成長とか歴史が垣間みれて作っていて楽しかったです。




久々に長々と書いてしまいましたが、今年も皆様よろしくお願い致します。